湖北の旅            岸本隆雄

 浮御堂(満月寺)
山門をくぐると、すぐ左側に阿波野青畝句碑<さみだれのあまだればかり浮御堂>が建ち、青畝先生が「よく来たね」と温かく迎えてくれたような気がして気分がぐっと和らいだ。九月末の良く晴れたとても気持ちの良い日だった。
  <行雁に向けリ千体阿弥陀仏>青畝 
千体の阿弥陀仏が安置されている湖中の仏殿の扉は湖に向かって開けられており、そこには高浜虚子の<湖もこの辺にして鳥渡る>の湖中句碑が、寄せ来る水に洗われてあたりに水輪を広げている。浮御堂に渡る橋の手前には<鎖明けて月さし入れよ浮御堂>の芭蕉句碑もある。また本堂の白障子は閉ざされていたが、その前にはきれいに手入れをされた見事な臥竜の松が枝をいっぱいに伸ばしていた。空には鳶が、水面では鳰が鳴いていた。

唐崎の松
 <辛崎の松は花より朧にて>の芭蕉の句で有名な唐崎は、古くは万葉集に<さざ波の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ>(さざなみの志賀の辛崎はその名のとおり変わらずあるのに、大宮人を乗せた船はいつまで待っても帰って来ない)と柿本人麻呂が詠んでいるように歌や俳句の名所である。しかし万葉集には唐崎の「松」を詠んだ歌はない。そのころの唐崎は敦賀から北国への交通の要所として栄えていたようだ。ところで現在の唐崎の霊松は実生で三代目。二代目の松は大正十年に枯れてしまった。訪れた時は、ちょうど松手入れの最中で松職人がひとりで仕事をしており、全部終わるのには一ヶ月以上はかかるけれども人にはやらせたくない、自分一人で丁寧にやりたいと話していた。見事な弧松のたたずまいを見て本当に「花より朧」だと実感した。
  <唐崎の松は扇の要にて漕ぎゆく船は墨絵なりけり>紀貫之

        

余呉湖
 <余呉湖畔狐火ほどとおもひけり>青畝  賎ヶ岳の北にある周囲六キロ余りの小さな湖で、周りの山が湖面にきれいに映るので鏡湖とも呼ばれている。「帝政編年記」養老七年(七二三)の条に、羽衣を盗まれて帰れなくなった天女の伝説が記されている。この羽衣をかけたと言われる柳が湖のそばに今も立っている。湖を巡る散策路はきれいに整備され、訪れた時はコスモスが盛りで、湖中の水草が紅葉していた。句帳を手にゆっくり歩いていると畑仕事のお婆さんが「俳句作りですか」と声を掛けてきた。しばらく行くと湖畔に、<鳥共も寝入ってゐるか余呉の海>路通の大きな句碑が立っていた。この句は「去来抄」で芭蕉が「この句、細みあり」と評されたということも碑に記されている。その辺りの丘には俳句の道と名付けてところどころに俳句が掲げられていた。この日は賎ヶ岳へ向けて一日中強い風が吹き、漣立つ湖面には秋のひかりが一面に輝いていた。  
  <戸口のみ余呉の雪掻く女かな>岸本白霧

十一面観世音
 <救世菩薩雪の没日に目を細む>青畝  仏教は紀元前六〜五世紀頃の北インドの人、ゴータマ・シッダルータが説いた教えで、彼は釈迦族の名門の家に生まれたが、二十九歳の時苦悩から永遠に開放される悟りを求めて、六年の苦行の後、瞑想によって苦悩から自由になる方法を悟り、弟子や信者に教えを伝え八十歳のとき、幸福な涅槃に到達したことを確信して死んだ。彼は仏陀、すなわち法、真理を悟ったもの、と呼ばれた。「菩薩」は悟りを得る以前の仏陀を意味する言葉として、紀元前二〜一世紀頃から用いられ始めた。「弥勒菩薩」は遠い未来にこの世にやって来るとされる菩薩であり、「観音菩薩」は、現在もこの世にいる菩薩、現在の苦難を救済する菩薩と考えられた。日本には朝鮮半島の百済から五三八年に仏教が伝わった。そして十一面観音の造立は七世紀後半頃から始まったらしい。  井上靖の小説「星と祭」は朝日新聞に連載された。十七歳の一人娘を琵琶湖に失った主人公の架山がわが子の面影を追って、或る時はヒマラヤの月を見に、或る時は琵琶湖の周りの十一面観音を巡り歩き、人生についてまた死について、亡くなった娘と会話をしつつ悟りをひらいてゆく過程を描いた素晴らしい小説である。私も小説に描かれた湖北の十一面観世音を一度訪ねてみたいと考えていた。秋の一日、すばらしい十一面観世音にお会いする事が出来た。   渡岸寺観音堂(向源寺)  ここの十一面観音は国宝である。平安初期の作で像高一・九米、檜の一木造で密教美術の白眉とされている。腰をやや左にひねり、お臍を出してお立ちになっているお姿は仏身ながら官能的でさえある。思わず今頃の臍だしルックを思い出した。  
 <観音の腰のあたりに春蚊出づ> 森澄雄

石動寺  
神亀三年(七二四)開創。平安初期最澄が再興したと伝えるが今は観音堂一棟あるのみ。本尊の十一面観音立像(重要文化財)は、一木彫で唇のあたりにほのかな紅が残り心もち腰をひねった美しいお姿で立っておられた。  
  <無住寺の鍵大きめに蕗の薹> 角川春樹  

平成15年10月

ひいらぎのHOMEへ